大小関係なく失敗すると死にたくなる。
人を頼ったり、人に頼ることになるのがとても苦手だ。
これも失敗のひとつと認識しているのか、人を頼る度に死にたくなる。
そんなすぐ死にたくなるとかおかしいんじゃないの?と自分でも思う。
あまり言い訳にはしたくないが、恐らく成育歴のせいなのかもしれないと思う。
昔、家事を手伝うと怒られ、家事を手伝わなくても怒られ、家事ができないと怒られ、分からないことを聞くと怒られた。
「私は忙しいんだからその足りない頭で考えろ!」
一日中横になって寝ている母に聞くと必ずそう言われた。
病み上がりで身動きを取るのもやっとで、すぐに疲れるから横にならざるを得ないのかもしれない。
それでもその姿は、聞いても問題がないように見えていた。
母は四六時中話に応じるのはダメで、話に応じることができる時を教えてくれなかった。
子供の思考というのは単純で、お母さんが怒っているのは自分がダメダメだからだ。もっと1人で頑張らないとダメだ。などと考えてしまう。
そしてそれを突き詰めて「自分が存在しなければ母は怒らないのではないか?」という考えにまで振り切れる。
小5の時にこの考えに至った私は、どうせ自分がいない方がいいんでしょとやさぐれていた。
何をしてもしなくても怒られ、機嫌を損ねれば家から追い出されるのは日常茶飯事。
家の中にいても居場所は玄関の石畳の上以外許されなかったこともある。
だったらいなくても同じじゃん で、いつしか自分から夜に家を出るようになった。
私の居場所はいつも空の下だった。
今でも心の中で浮かぶ自分の家の景色は、笑い声が聞こえる窓明かりが漏れる家を外から見ている。
その団欒に混ざることは許されない。
自己主張をしても届かない。
ずっと昔から憧れていた、団欒に混ざるということ。
待ち焦がれすぎて、今やもうどうでもいい苦しい呪縛。
叶わないことも分かっている。
求めているのは大昔に欲した家族への憧れであり、親の愛情であり、二度と手に入ることはないもの。
昔からそうだった。家族全員で仲良く過ごすことが夢だった。
叶わないものと知ってからは、手を伸ばすことをやめた。
求めることをやめた。
感情に蓋をした。
今はもう、求める気はない。
欲しいのは死だけ。
死ぬことこそが救済。
それがわかっているのに、能書きを垂れて生きようとする自分が嫌い。
さっさと死ねばいい。
死んでしまえ。
しあわせに生きてきた者は理解できない感覚だろうとも思う。
私と同じ境遇でない限り、この絶望的な価値観の差は埋めることはできない。
私の求めるものは昔から変わっていない。
だからこそ、「可哀想だと思って近づいたら懐かれた。あの人には近づかない方がいいよ」と何度でも言われるのだ。
私の求めるものは間違っている。
他人と関わる理由にしてはいけない。
ならば他人を求めることを止めればいい。
一度やめているので止め方は分かる。
自己主張しなければいい。
教室の隅で外を眺めていたように、周りに存在を知らしめることを辞めればいい。
とても簡単なこと。