あの日のあの時間

2024年3月11日

3月11日と言えばこれというものの代表格。

東日本大震災。
今年で13年です。

あの日のあの時間。
ぼくは学校で授業を受けていた。

現代文の授業で、もう年度末だから教科書の教える範囲はないと自習の時間になっていた。

ぼくの教室の場所は4階にあった。

14時46分に差し掛かって真ん中くらいの時間だったと思う。

最初は小さな揺れで、なんか長いな〜なんか気持ち悪いな〜と思っていたら、突然大きな揺れになった。

教室で悲鳴が上がった。
先生が「急いで机の下に隠れろ!!」と叫ぶ。

当時中二病真っ只中だったぼくは「いいぞ!そのまま全部壊してしまえ!」と思いながらにやにやしていた。

揺れが収まってから、ぼくたちは避難訓練みたいに荷物を持たずに教室から校庭に向かった。

ほとんどお決まりの「避難するまでに◯◯分かかりました」的な校長先生の言葉はなく、いつまで経っても先生たちから指示は来ない。

そうしている間も何度か地面が揺れる。
誰かの泣き声があちこちから聞こえてくる。

そうして30分くらい過ごしていたら、
「今から1クラスずつ荷物を取りに戻ってもらって、またここに戻ってきてもらいます」
と校長先生から指示が来た。

安全確保のために1クラスずつの生徒たちを、全ての先生が昇降口から階段まで見張る感じだった。

4階のぼくたちは割と先に行くことになって、荷物を取りに行っている間も学校は揺れたり止まったりの繰り返し。
揺れたら急いで校舎の外に出ろと言われていたが、特に大きく揺れたりはしなくて、それでも全クラスが荷物を取るのに1時間くらいかかったと思う。

生徒たちが全員揃ってから、校長先生は三度指示を出した。

「連絡がついた生徒から、親御さんの迎えが確認でき次第帰ってもらいます」

が、電波の止まったガラケーたちはうんともすんとも言わず、校舎内に設置されていた公衆電話も不通で、全然知らない生徒と「繋がらないね〜」なんて話したりしながら待っているうちに日は暮れてしまった。
同じ状況に置かれた生徒とぼくたちは明かりの灯らない特別講義室棟(当時母校の中で唯一耐震工事の規定を満たしていた新設の建物だった)の中で、薄い毛布をかけてくっつき合った。

その日は3月のくせにめちゃくちゃ寒かったのだ。

そんな中でも迎えが来る生徒もいたりして、1人、またひとりと帰って行く。

ぼくの親が迎えに来たのは20時少し前だった。

寒かったろう、と車の中でココアを入れてくれた。
ガスも水も止まっているのにどうやってお湯が沸かせるのかと思ったら、携帯用のガスコンロでペットボトルの水を沸かして水筒に突っ込んできたと答えられた。

帰った家の中は真っ暗だったが、懐中電灯を灯しまくってガスコンロと鍋で食べられるものでその日の夜を終えた。

ガスと電気は復旧に1週間、水は排水管が壊れていて3週間くらいかかった。
その間はガスコンロとペットボトルの水と懐中電灯で食いつなぎ、ペットボトルの水は次第にその辺の湧き水と配給の水に変わった。

家に無駄に備蓄があったからできたことである。普通の家は避難所生活を余儀なくされていた。
そもそも自宅のある集合住宅は基盤にヒビが入っていて倒壊の恐れもあったが、なんだかんだで修復工事まで崩れることはなかった。

テレビが見られるようになったのは1週間後で、それまではガラケー経由でネットで情報を仕入れていた。

東北地方が津波で大変なことになってるらしい情報を仕入れたのと、
3日後くらいにやっと覗けた、当時所属していたSNSでは「粂井さん音信不通だけど大丈夫か!?」ってめちゃめちゃ心配されていた。大丈夫だけど電気がないから、また落ち着いたら来ると書き込みしてしばらくSNSを見はしなかった。

学校が再開するまでは1ヶ月かかって、入学式が簡略化されるなどの不思議なことはあったものの、その後は特に何もなかったように思う。

ただ、特別被害が大きかったわけでもないのに、しばらく「地震大変だったでしょう?」とお決まり文句のように言われて、正直ウンザリしてしまったのはある。

彼らに悪意はないのは分かっているが、それだけにどこにも言えなくて、受験以前の問題でストレスが溜まってしまった。

ぼくの中での3月11日はそんな感じの日でした。

という記事をいつも書いていたので、今年も。